父の、満中陰法要でした。
お坊さんに実家まで来て戴きました。
ひろは親族が来る前に来ててね、黒い服装ね、って前日に母に云われて、10時頃行くわって答えたのに、起きたら10時でした(…)。
パパの最後のごはんがパパの席に並べてありました。
これは田舎の風習で、本当はおままごとみたいな小さな小さな器のセットがあって、それに盛り付けるのですが。
うちにはなかったので、生前パパが使っていた食器で。
今日、最後にこのごはんを食べて、真実にこの家から去って行ってしまいます。
七日毎の追善供養を七週間。
そして今日が、審判で運命の決まる、満中陰。
六道輪廻の間をさまよう四十九日の終わり。
死んだらそこでお仕舞いってどんなに思っていても、矢張り何処かで、「今日で居なくなっちゃうのか…」ってナチュラルに思ってしまうのって何でだろう。
自分の考えていることなのに、全く理解出来ない不思議。
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「死」に間近に接して、死ぬって何だろうって本当にアホみたいに考え続けた数ヶ月でしたが、ひとのアイデンティティやパーソナリティって結局はその人を取り巻くひとたちが握っているものでもあるわけで。
だから、これからもいっぱい思い出話をして行こうと思います(´∀`*)
思いや、認識や、意識・無意識って云うのは不思議だなあと思う今日この頃です。
ひろも基本、そう云うことは形式的な理解をしていて、まあそれなりに興味もあるのですが、そこに特に譲れない何か…と云うか思想があるわけではないんですよねえ。
その辺りは乱菊さんのサバサバっとしたところととても通じるものを一方的に感じているのですが(笑)。
ただ、小さな頃から仏教がマジョリティな国で育って、身体に、頭にしみついていることも沢山ある気もします。
自分の基本ライン、根本にある自分の“常識”の中にもう埋め込まれていると云うか。
だから、バチが当たるとか悪いことのあとにはきっといいこと…とか、そう云うことを自然と無意識に考えちゃう瞬間があるのかなあって。
でも、その20年…のお話じゃないですが、自分自身は納骨云々には全然拘りがなかったり。
罰当たりですかね(苦笑)。
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「死者というのは我々がまったく忘れてしまうまで、本当に死んではいない」
と言う言葉だけは信じてるんだよねー。
でもこれは真理だと思わない?
だからこそ宗教があるのかもしれないんだけども・・・そう考えるとやはり信仰に辿り着くのか・・・うーむ(笑)
そう言いつつ、先祖代々の墓参りを20年くらいブッチしている駄目な子です_| ̄|○ il||li